『表現』と『主張』

こんにちは。

Mónicaです。

 

ちょっと今日は真面目な話…

 

『表現』と辞書で調べると

「心的状態・過程または性格・志向・意味などを総じて内面的・精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作・言語・作品など。」

 

『主張』と辞書で調べると

「自分の説を強く言いはること。」

 

最近はこの『表現』と『主張』が一緒になってきてるんだって。

もともとは違うものなのに。

そこがあやふやになってきてるから

今は展覧会が作家の『主張』の場になってきてるんだって。

 

…何がいけないの?

 

じゃあ作家はどこで『主張』すればいいの?

 

一番自分が得意な分野で世の中に何かを訴えようとしているのに。

 

新聞記者が新聞で自分の考えを『主張』するのは新聞ですよね?

物書きが自分の考えを『主張』するのは本ですよね?

 

じゃあ作家は?

 

私の尊敬する浮世絵師の歌川国芳

幕府が財政が厳しいから贅沢は禁止!

錦絵も美人画は贅沢品だから禁止!となった時に

猫の美人画を描きました。

 

国芳がどんな思いでその絵を描いたかは分かりません。

でも何よりの『主張』だったと思います。

 

「じゃあ展覧会で『主張』しないでさ、

デモとか討論会とかで『主張』しなよ」

と思う方もいるかもしれません。

 

でも

展覧会で自分の考えを『主張』した作品を発表した方が

もしかしたらデモや討論会に行くよりも

何かしらの力になるかもしれない。

だって言葉で『表現』するより

作品で『表現』する方が

作家は得意だから。

 

もしこれから作品を発表する時、

この作品を見る人の気持ちを考えて作品を作らないといけないならば

私は何もできません。

 

だって誰が見てくれるか分からないし。

 

誰もが見て「素晴らしい!」と思える作品ってこの世にありますか?

それが品があるないとかだと言われても

それだって主観だし。

モナリザだって品があると思うけど

「あんな胸のあいた服着て…」

って思う人もいるかもしれない。

 

そんな風に作家の『主張』する場さえも限定するような

世の中になってしまうのならば

これはかなり危ない傾向だと思います。

 

 

 

 

 

って真面目な話でした!

明日からはまたふざけたどうでもいい日記かきますわ^^